2014年04月07日

後悔というも

「サクライさん、高い方もできるでしょ?」
そう言われて高音を担当HKUE 好唔好するようになってから、朗読の楽しさがガラッと変わった。

合唱のように朗読にも多人数で一度に同じ文章を読む形がある。ソプラノ・アルト・バス…とは呼ばないけれど、声の高さでパート分けをする。
講座が始まった時、それぞれに好きなパートを選んでみて下さいと言われ、わたしは一番低い声のグループに入った。自分の声が高いとは思わないし、なにより低い方が「目立たない」と思ったからだった。分かれてみると低い声のグループが一番人数も多かった。高い声の方はやはり、人数は少ないながらも明るく積極的な人が多いという印象だった。

そのまま数ヶ月、その詩をやるときには低い声のグループにいた。が、人数のバランスが悪くなって真ん中の声に移った。それからまた数ヶ月して先生から「高い方をやってもいいんじゃない?」と言われたのだが、正直言って、それはとても嬉しい提案だった。声を高く張ると、当然気分も明るくなり、表情と共に自分自身もいきいきとしてくるのが分かった。

じゃあ、最初から高い方を選べばよかったじゃない?なのだけど、だいたいそういうことになるといつも引っ込んでしまって自分からは前に行けない。選ばれれば
HKUE 好唔好自信を持ってやれるのにと思うヘタレなのだ。(という同じ文章を前に書いた気がする

冷静になって見方を変えれば、低い声で重苦しさを表現する方がずっと難しいので、わたしには向いていないと判断されたということでもあるのだけど、その時はとにかく、先生の手で明るい所に引っ張り上げられたように感じ、自信を持って声もよく出る(出せる)ようになった。

最近では、朗読劇でも明るい役どころやひょうきんな役を振られるようになって、大げさな身振りや手振りを「やってみて」と言われるまま思い切ってやっている自分に自分で「おやおや?」と驚いている。求められているイメージに乗っかているのか、それが本来の自分だったのかよく分からないが、ふわっと身体が浮くような楽しさがある。

声で表現したり身振りで演じたり、10代の頃からそういうのは好きだったんだよなあ、でも、しなかったんだなあ……なんてしみじみと思い出しているが、それは、後悔というものでもない。もちろん、そのときにしたいことをしていたら人生は少し変わっていたのかもしれないけれど、その方がよかったとも限らない。

なんにせよ、心の中に持っていた好きなことに年を経てゆったりと巡り合うのは、なんだか「うふふ」なことである。昔の恋人と屈託なく話せるような楽しさかもし
HKUE 好唔好れない。話したい。






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